コメントだけでは十分でないと思われるので、はっきり書きます:


一つ下の記事の、ヨウ素を含むうがい薬を薄めて飲むとよいという話には根拠はありません。

放射性ヨウ素から身を守る目的で薬剤を摂取するに際しては、医師や専門家の指示に従ってください。


 首都圏の交通、無残に大混乱。昨日は無理やり出勤しましたが、行きも帰りも3時間以上かかり、仕事になりません。本日からは、データを持って帰って自宅でやります。


 それでも先週末はエチュードをさらって過ごしました。アンデルセンOp.21、No.6, No.7 はほとんど上がり。No.8 はデュオなので飛ばして No.9 にかかります。

 非常用品とヘルメット(警備員稼業の名残り)を手元において、フルートを吹くのってなんだかシュールですが、私は笛吹きだから、笛を吹きます。身の回りから美しいものがなくなっていってますから。


 原発事故の恐怖。ちょっと、皆様に情報を。

 ヨウ素ですが、ざっと計算したところ、1週間から10日ぐらいで首都圏にも達します。

 政府が配ることになっているヨウ素剤はヨウ化カルシウムですが、それ以外にも使えるものはあります。私のような登山をやる人間はみんな知っている。

 どこの薬局でも手に入る、ポヴィドーン・ヨウ素をつかったうがい薬、あれです。有名なのは「イソジン」という商品名で売られていますが、類似品でも同じです。

 なぜ登山と関係があるかというと、あれは効能書きを見ると「うがい以外の用途に使わないでください」と書いてありますが、それは乱用を避けるためであって、実は人体への毒性は低く、それ以外の用途にも使える万能消毒薬なので、登山用のファーストエイド・キットの定番なのです。傷口の消毒(昔あった、ヨードチンキよりも安全で、同様の効果があります)、器具や飲み水の消毒など。


 人体の中でヨウ素を一番必要とするのは甲状腺で、食べ物から摂取したヨウ素がここに集まって濃縮されます。もしそれが放射性のヨウ素だったら、甲状腺がやられる。そこで、放射能のない普通のヨウ素をたくさん摂って甲状腺に充満させておけば、放射性のヨウ素が入ってきても余分だから、排泄されて事なきを得る、という原理です。


 うがい薬を、普通の体重の人一人当たり数滴、毎日時間を決めて朝晩二度ほど、水に溶かして飲みます。私はお茶や味噌汁に入れてます。お茶はちょっと味が悪くなりますが、味噌汁はほとんど変わりません。


 ヨウ素は必須栄養素で、主に海岸に打ち上げられた海草から、風に乗って内陸に運ばれ、陸野菜に付着して摂取されます。われわれのように海草を直接食べる文化があるところはまた話が別ですが。アメリカや中国のような大陸国では、内陸部の野菜にヨウ素が少なくて、甲状腺の具合が悪くなる人が多いので、食卓塩にヨウ素(ヨウ化ナトリウム)を添加しています。だから、ヨウ素を人工的に摂るのは決しておかしなことではありません。とはいえ、どんな栄養素でも大量に摂れば害があります。採りすぎは禁物。

 やっと少し時間ができ、息をついてます。この一月というもの、朝は6時から夜は10時まで働きづめ、休日も同じ(手当てなし)で、大げさでなく本当にイノチガケでした。
 しかし世の中は決算期で、駆け込み需要があるから会社は人手不足のまま突っ込んでゆく。私も一息ついたらまたすぐ狩り出される模様。

 週末はフルート三昧。アンデルセンOp.21、6番と7番を20回づつ通したら手と肘が痛くなってたまらない。どうも腱鞘炎になったらしい。なんか無理な動作をしてるかなあ。
 仕事に差し支える・・・。
 強烈に忙しくなってきました。残業だけでは追いつかず、今週末は休日出勤です。

 しばらく、当ブログも更新できなくなると思われます。ごめんなさい。
 アクセス解析を見ると、例の「最適化」の話って意外とウケタようなのでちょっと蛇足。

 記憶とか学習とかいったものと、アイデンティティが深い関係にあるということは、いろいろな研究者によって古くから注目されてきました。ただ、いったいそれらがどういう風に関係しているのか、といった途端にこのうるわしき共通理解は崩れて彼らはくんずほぐれつの大乱闘を始めてしまう。「記憶」とか「学習」とか、ましてや「アイデンティティ」などという概念の捉えかたはそれこそ人によって千差万別。しかもそれぞれがみな、強烈な思い入れの対象になりがちな代物だからね。

 まあしかし、我々が普通に、自分が「おのれ」なるものを賭けて何かに没頭しているようなときはその「何か」をよく学習、記憶するし、その習い覚えたことをなかなか忘れない、というような体験はどなたにもあるでしょう?アイデンティティに関連付けると、記憶とか学習とかの「把持」の良し悪しをうまく説明できるわけだ。

 もちろんこういったことを厳密に、決定的に議論するのは難しい。おそろしく難しい。しかし、こういうことはみな関係しているな、と実感するには、多くの人にとってとても楽しい実験を一つやれば足ります:

【準備するもの】
 1.あなたの一番好きな種類のお酒を、あなたが確実に酔っ払って記憶を失ってしまう程度。
 2.そのお酒を全部飲んでしまう間、愉しむに十分なほどの肴。
【手順】
 夕方になったら、用意したお酒と肴を持って、自分の家から40Kmほど離れた適当な地点に行き、肴を摂りつつお酒をみんな飲んで、記憶をなくす。
【予期される結果】
 翌朝、あなたは自分のうちの自分の寝床の中で、とんでもない二日酔い状態の自分を見出す。しかし、いったいどうやって家まで帰ってきたのか、思い出せないことでしょう。

 ・・・ははは。実は、自分の住処までの帰り道というのは、記憶の一番深層に格納されていて、それこそ自分自身の一部分といえるような代物らしいのです。脳生理学的にも、これはわかっています。だから、それ以外の「自分」のほとんどすべてを一時的に失ってしまっても、これは残る。
 近頃のようなご時勢では、自分が何十年も暮らしてきた住居が取り壊されているところを目撃する人も多いでしょう。そのとき多くの人は、「自分自身」の何かが失われたように感じるわけだけれども、この崩壊過程の方も同じようにして「説明」できる。

 しかしそういうものをいつ、いかにして「学習」したのか、と考えても、これは内省だけではどうにも曖昧模糊としたものになるはずです。

 親の顔は忘れないでしょう?いつまでも。
 ある楽曲が親の顔と同じぐらい「自分自身」の一部をなすようなものであったら・・・確実に暗譜できるはずです。
 昨夜は残業遅くて、今朝は寝坊してお弁当を作ることができず、昼飯はチェーン店の天丼で済ませました。
 その帰るさ、ぶらぶら歩いていくと、前から気になっていた一軒の店が意外にも営業していた・・・というのはこの店、前に通りがかったときにはしまっていたのだ。
 何の店かというと、今や絶滅危懼種の「名曲喫茶」。
 だいたい今の私の仕事場は、東京でも特にレトロな物件が見受けられる地域のようなのですが、名曲喫茶は今や東京全体でも、どれくらい残っていることやら。私の知っているところはもう10軒もありません。

 ・・・で、入ったかというと、入りませんでした。まあ時間があまりなかったということもあるけど、ぼろぼろの建物に嵌った小さな窓から垣間見られる店内があまりにも真っ暗で、不気味さに恐れをなしてしまった。

 でも、そのうち入ってみたい気はします。
 週末は予定通りフルート三昧。
 21-6 はスムーズに通るようになってきたが、どうせ乗りかかったフネだ。旋律部分は旋律部分、和音は和音、接続部分は接続部分、と全部ばらばらにした譜面を別に作ってさらっている。さらにこれらの断片にまた手を加えて何かやると面白いかもしれないので、これは今週末にとっておくことに。
 楽譜作成ソフトなど持っていないので、すべて手作業。エアコン代節約をかねて近所のコミュニティーセンターでおばあちゃんたちを相手に雑談しながら、休日にこういう作業も悪くありません。

 21-7 もかなり通るようになってきた。しかしこれも中にし掛けがしてあるので、しばらく楽しめそう。
 仕事をしていると、いろいろな企業がこのご時勢に生き残ろうと必死に格闘している様子が、翻訳原稿からひしひしと窺われる。技術翻訳などという地味なサービスながら、こちらもついインヴォルヴして声援を送りたくなる企業も多いが、「おーい、そんなんでうまくいくのかい?」と思ってしまうのも中にはある。

 「俺から音楽をとったら何も残りませんから」と「のだめカンタービレ」の千秋は言っていた。そういえばのだめの母親も「ばってん、恵からピアノばとったらなんも残らんばい」。

 この「誰それから~を取ったらどうなるか」という考えは、なぜ「説得」という文脈で出てくるのだろうか。それはこれが説得力のあるものの考え方であり、表現であるというフォーク・レトリックが生きているからに違いない。

 マイケル・クライトンの傑作「ライジング・サン」のコナー警部は問う、「日本人はなぜスシを食う?」
 そして苦笑しながら自ら答える。「それは、それが日本人というものだからだ。」
 「アメリカ人はなぜハンバーガーを食う?それがアメリカ人というものなんだよ。」

 コナー警部に託してクライトンが言わんとしているのは、人には「それ」がないとアイデンティティが変わってしまうような要素が必ずある、ということだろう。こんな風に犯人のアイデンティティから迫るコナー警部は犯人を突き止める。しかし物的証拠の集積から最適解としての犯人を追った別の警官は、失敗してしまう。
 現代実験心理学の最先端ではこういうのが「学習」とか「鑑賞」といった文脈において語られるにいたっている。つまりある知識なり楽曲なりの真の学習とか鑑賞とかが発生するのは、その前後で何らかのアイデンティティの変化がある場合に限られると考えられてきているのだ。

 あなたが一冊の本を読んだとする。さて、その本を読む前のあなたと読んだ後のあなたは同じひとだろうか、それとも違うひとだろうか?変わっていないなら、あなたは何も学習しなかった。
 あなたが一曲の音楽を聴く。聴いた前と後で、あなたのアイデンティティは変わっただろうか?

 ハンバーガーやスシがこの世からなくなっても、日本人は日本人、アメリカ人はアメリカ人、なのか。それともすし屋で寛いで自分自身を取り戻す日本人や、異国の片隅に旅してマクドナルドを見つけ、ほっと一息つくアメリカ人はやはりそういう「世界のかけら」みたいなものを自分のアイデンティティの一部に取り込んでいる、というのが正しいのだろうか。

 いずれにせよ、そういう大勢の集団にとっての「自分自身を取り戻すよすがとなるような世界のかけら」を創り出し、自家薬籠中のものにしたビジネスは、必ず成功するものと決まっているようだ。人々はそれと知らぬ間に、それこそただ単に安心したいがためにでさえ、そういう商品やサービスを求める。

 「最適化」を生き残り戦略として考えたいなら、単なる特性の集積と最適点への近似法に乗っかった競争などではなく、そのような「世界のかけら」に向かったものでなければならないはずだ。
 給料出ました。
 ただちに部屋代と公共料金等を振り込み・振り替え。これで来月末までの生存はひとまず確保。

 しかし残業代少ないな~。天引きキツイな~。