仕事をしていると、いろいろな企業がこのご時勢に生き残ろうと必死に格闘している様子が、翻訳原稿からひしひしと窺われる。技術翻訳などという地味なサービスながら、こちらもついインヴォルヴして声援を送りたくなる企業も多いが、「おーい、そんなんでうまくいくのかい?」と思ってしまうのも中にはある。

 「俺から音楽をとったら何も残りませんから」と「のだめカンタービレ」の千秋は言っていた。そういえばのだめの母親も「ばってん、恵からピアノばとったらなんも残らんばい」。

 この「誰それから~を取ったらどうなるか」という考えは、なぜ「説得」という文脈で出てくるのだろうか。それはこれが説得力のあるものの考え方であり、表現であるというフォーク・レトリックが生きているからに違いない。

 マイケル・クライトンの傑作「ライジング・サン」のコナー警部は問う、「日本人はなぜスシを食う?」
 そして苦笑しながら自ら答える。「それは、それが日本人というものだからだ。」
 「アメリカ人はなぜハンバーガーを食う?それがアメリカ人というものなんだよ。」

 コナー警部に託してクライトンが言わんとしているのは、人には「それ」がないとアイデンティティが変わってしまうような要素が必ずある、ということだろう。こんな風に犯人のアイデンティティから迫るコナー警部は犯人を突き止める。しかし物的証拠の集積から最適解としての犯人を追った別の警官は、失敗してしまう。
 現代実験心理学の最先端ではこういうのが「学習」とか「鑑賞」といった文脈において語られるにいたっている。つまりある知識なり楽曲なりの真の学習とか鑑賞とかが発生するのは、その前後で何らかのアイデンティティの変化がある場合に限られると考えられてきているのだ。

 あなたが一冊の本を読んだとする。さて、その本を読む前のあなたと読んだ後のあなたは同じひとだろうか、それとも違うひとだろうか?変わっていないなら、あなたは何も学習しなかった。
 あなたが一曲の音楽を聴く。聴いた前と後で、あなたのアイデンティティは変わっただろうか?

 ハンバーガーやスシがこの世からなくなっても、日本人は日本人、アメリカ人はアメリカ人、なのか。それともすし屋で寛いで自分自身を取り戻す日本人や、異国の片隅に旅してマクドナルドを見つけ、ほっと一息つくアメリカ人はやはりそういう「世界のかけら」みたいなものを自分のアイデンティティの一部に取り込んでいる、というのが正しいのだろうか。

 いずれにせよ、そういう大勢の集団にとっての「自分自身を取り戻すよすがとなるような世界のかけら」を創り出し、自家薬籠中のものにしたビジネスは、必ず成功するものと決まっているようだ。人々はそれと知らぬ間に、それこそただ単に安心したいがためにでさえ、そういう商品やサービスを求める。

 「最適化」を生き残り戦略として考えたいなら、単なる特性の集積と最適点への近似法に乗っかった競争などではなく、そのような「世界のかけら」に向かったものでなければならないはずだ。